最近やたらと「多様性」って言葉がでてきて、LGBTQ+とかいう言葉をよく耳にするわけですけど。
誤解を恐れずに言いますが、自分はこの風潮に「認めるべき部分もあればもやもやする部分もある」と思ってるんですよね。
何が言いたいかというと、「先天的か後天的か」という点。
先天的な理由であればそれは認めるべきだし、世の中として受け入れるべきだと思ってます。
でも、後天的な理由については一概にそうじゃなくて。
といって、当事者自身になにか言いたいわけではないんです。当事者にしてみれば「先天的であろうが後天的であろうが今の自分がそうなのだから関係ない」って話だと思うので。
でも、「後天的」ってことは、「何かのきっかけにそうなった」ということなわけですよね。
じゃあ「きっかけ」って何なんだろうと考えると、大別すると「自分自身の体験」か「誰かから話を見聞きしたことでそうなった」ということになると思います。
前者にしても後者にしても、細分化したら色んなバリエーションがあると思うんですが、後者については最近とくに個人団体問わずいろんな情報が溢れていて、その中には不要に煽るようなものも多く含まれているような気がしています。
中には「そういう情報に触れなければそうなっていなかった人も少なくないのではないか」と思うんですよね。
肝心なのは、よく言われる「そういう情報をみなければ『本当の自分』に出会えなかった」は本当にそうなのだろうか?ということで。
「本当の自分」というのは、今の自分がそう理解しているならそれは間違いじゃないと思ってます。
でも、もし違う環境で、違う生き方をしてたら、違う「本当の自分」を見出してたんじゃないかと。
自分は「人間の性格や性質は、基本的にはそれまでの人生経験で形成されるもの」だと思ってます。
自分を例に取ると、生まれてから今まで運動がとにかく苦手だったので、運動をしない人生を送ってきた結果、今の俺みたいな偏屈な理系人間になりましたけど、もし運動が得意だったら今の俺と同じ性格になったとは到底思えないんですよね。
そういう意味で、後天的に性格や性質に与える影響っていうのは少なからずあるだろうと思ってて、そういうのに触れる機会が多くなるほど、影響される機会も多くなるのだろうと思います。
今の情報の溢れる世の中って、そういう情報に触れた結果生まれた「多様性」も少なくないんじゃないかなーなんてことを思ってます。
だとしたら、「今の世の中における情報発信のあり方って正しいのか?」なんてあたりに、もやもやを覚えるんです。